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歴史

【当地の観音信仰】

慶長の頃(1596~1615)、現在当院が位置している付近の岩窟に十一面観音が祀られ、近隣の人々から「石原観音」と呼ばれて信仰されていました。
やがて糟屋郡中三十三観音霊場の第二十四番札所となり、天保年間(1830~1844)には地域の方々によって現在地である篠栗上町に観音堂が建立されました。
更に安政2年(1855)お堂を再建し篠栗四国霊場の第六十二番札所の本尊十一面観音も共に祀られるようになりました。このお堂では寺子屋も開かれており、信仰だけでなく教育の場としても大切にされていました。
しかし明治時代になり、廃仏毀釈の政策による篠栗霊場廃絶の県令が出されました。寺院ではないお堂は撤廃するよう命じられ、篠栗霊場全体が存続の危機に陥りました。

【遍照院の歴史】

福岡市博多区に博多祇園山笠が行われる櫛田神社があります。天平宝字元年(757)の創建と伝わるこの神社の一角に、創立年不詳の神護寺(または神宮寺)というお寺がありました。神仏習合が一般的だった江戸時代までは神社とお寺は密接な関係があり、大きな神社の横には幕府によって作られた神護寺がありました。
この神護寺は別名「滅罪寺」とも呼ばれ、本尊は薬師如来であり、博多東長寺に所属する真言宗寺院でした。

※天明4年頃(1784)。右上の区画が神護寺です。〈筑前國続風土記附録〉

※江戸後期。中央の「櫛田社」の右下に「神護寺」があります。〈博多旧図〉

宝永6年(1709)の文献から「神護寺遍照院」の表記が現れます。
明治になり神仏分離令が出されたため、全国の神護寺(神宮寺)は廃寺となりました。櫛田神社の神護寺も廃寺が命じられましたが、神護寺を遍照院と改称し、本尊を薬師如来から庚申尊天へと変えることで存続することができました。
しかし福岡の真言宗寺院を庇護していた黒田家が無くなったことと廃仏毀釈の時流もあり、遍照院は衰退していきました。

【観音堂と遍照院の良縁】

博多東長寺の弟子であり、篠栗の金出 御手水滝で庵を結んでいた西 義観師という僧侶がいました。
明治33年(1900)『篠栗霊場の札所は寺院であれば廃絶を免れる可能性が高まる』ということを知った篠栗上町の観音堂の信徒と義観師は、東長寺の末寺であった「遍照院」という寺格を本尊の庚申尊天像と共に観音堂に移し、篠栗霊場第六十二番札所 石原山 遍照院を開山することで札所の存続を確実にすると同時に衰退していた遍照院を復興させました。
以来多くの仏様に守られる当院は初代 義観師、二代 亮彰師、三代 随円師、そして当代 宏円に至るまで数多の良縁により支えられてきました。

出典元:

《1枚目》

福岡県立図書館保管 平岡邦幸氏寄託 筑前國続風土記附録上巻
天明4年(1784)に編纂の藩命が下る

《2枚目》

福岡県立図書館所蔵 博多旧図「大田資料」336号 江戸後期